北朝鮮の脅威を防ぐために誕生した韓国型テコンドーの手技

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北朝鮮の脅威を防ぐために誕生した韓国型テコンドーの手技

現代格闘技で手の技とステップなど、最も効率的で実戦性のあるものはボクシングということに異論はないだろう。

これに比べて中国武術とテコンドー、日本武術をはじめとする伝統武術の手の技術は前近代的で現代的な格闘理論と多くの違いがある。 人の動きや衣服などを含めた生き方は変わったのに、まだ前近代的な方法を固守して教えているのだ。

中国の武術では昔の伝統衣装の広い服をつかむ技と変髪をつかむ技がある。 今は使い道がなくなった技術だ。

では、ボクシングの長所と短所をよく分析し、東洋武術のアイデンティティも守った東洋武術式の手技はなぜ出てこないのだろうか? なぜ中国武術はMMAに出て成績を上げられず、徐小東などに侮辱されなければならないのか。

ところが、そのことが起きた。 それも韓国にて。 それも蹴りで有名なテコンドーで。

1972年、国技院が発足する際に、いくつかテコンドー流派が国技院に統合されて’館’は消えて国技院、テコンドーはオリンピックに入れるほど、うまく整理され、発展した。 しかしこの時もひねくれた人たちはあって国技院に入らず自分だけの「館」を維持し続けた人たちがいた。 テコンドーの伝統と名前は共有しているが、国技院という体制外にある団体と人々である。

実際、テコンドーというのは北朝鮮との体制競争の産物だ。 北朝鮮との体制競争の過程で、国技院テコンドーは五輪に向けて全力を尽くしたが、世界体制から遠く離れていた北朝鮮は、このような考えすらできなかったはずだ。

1960年代後半、撃術を習った北朝鮮人と(格術はテコンドー以前の北朝鮮の格闘技だ)当時、テコンドーをしていた兵士たちと格闘の過程でテコンドーが無惨に敗北したことが起きた。

北朝鮮の撃術と試合で敗北したという話もあり、実力が低かったという話もあるので、一回ではなく何回も開かれ、人の水準によって上手な人と下手な人たちもいたはずだという推測ができる。

一方,北朝鮮人と試合で撃術に敗れたテコンドー人たちは,テコンドーというシステムに疑問を抱くようになる。 なぜ撃術のその技に無残に敗北したのか? 解決策はないだろうか。

テコンドー界は、北朝鮮に無条件で勝たなければならない国家的な体制競争で、テコンドー界だけが負けているのだ。 これは反逆行為も同然だった。 当時、テコンドー人が集まって工夫した結果、韓国型手技である’四式図’が出現した。 この四式図はボクシングのようでもあり、永春拳のようでもあるが、グローブではなく素手の格闘の時、ボクシングの長所と東洋武術の長所を一緒に使える技術だった。

1960年代後半には、南北対立が最高潮に達した時だが、当時、’四式図’を作ってきた人々はどれほど切迫したのだろうか。 試験前の一夜漬づけのようにこの切迫さは ‘四式図’を作り出した。

1977年京郷新聞の記事”武術の世界”

上の古い京郷新聞の記事に見られるのが「陰陽手」である。 テコンドーの文武館は武人なら文武を兼ね備えなければならないという意味で、崔弘熙総裁が命名した名前だ。 テコンドー文武館は軍隊で普及したために空軍部隊の隣には文武館があるほどだったが、今はほとんどなくなった。 理由は、崔弘熙総裁のITF系テコンドーをしており、崔弘煕総裁が北朝鮮に渡った時、身の安全を恐れて行方をくらまし、または国技院に統合に反対した理由だ。

四式図は陰陽手に変わり、これまで続いている。 四式図による陰陽手を北朝鮮撃術を打破する技として「文武打撃道」と名付けたこともある。

「陰陽手」は今も発展を続けており、「文武斌テコンドー」(国技院所属ではない)のように、非常に体系的で 詳しく発展したところもある。 その他、天武極、プロテコンドーでは陰陽手の流れを引き継いだテコンドーをしている。 問題は、陰陽手をする団体がすべて国技院テコンドーではないという点であり、「天武極」のように名前を変えたところもある。

南北の体制競争は武術にも影響を与え、四式図という技術が出現するようになり、これが韓国式の手のわざ、東洋武術式の手のわざ、グローブをはめないことを想定した現代的な手のわざだという点が実に面白い。

http://15.165.179.230/?p=164

http://15.165.179.230/?p=153